こんにちは、フジケンよりバトンを受けました129期主務の朝比奈です。
とうとうラストLIFEです。気張って行きます。
さて、引退生活5日目ということで、さぞ楽しい毎日を送っているのかと思われがちですが、実際は全然そんなことありません。
引退を区切りに、これまで多少勉強ができなくても、多少太っていても僕をキャンパスという戦場から守り続けてきてくれた「学生服」、「体育会学生」という鎧は失われ、今は大学に来ていく「私服」すら満足に持っていない、ただの体脂肪23.6%という驚異的な「脂肪」だけが残った22歳のふくよかな一学生となってしまいました。
この現実は週4で大学に通わねばらない僕にとっては余りに厳しい状況です。
そんなふくよかな一学生が、今となってしまっては過去となってしまった4年間で思ったこと、感じたことをツラツラと書いていきたいと思います。
文学部ですが、文才は皆無ですので根性で書き進めていきます。どうぞお付き合い頂けますと幸いです。
はい、ということでここからは少し真面目に。
何を書こうか迷いましたが、やっぱりマネージャーになってからの2年を中心に書き進めていこうと思います。
というのも、ここで感じたことが僕の端艇部生活4年間の全てであり、一つ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食った家族同然のみんなに伝えたいと思ったからです。
あとは、もしかしたら1ヶ月後、10年後、50年後にマネージャーになるかもしれない端艇部員に向けて。
これは、僕の経験からですが、僕がマネージャーになった当時一番知りたかったのが、これまで端艇部の長い歴史の中でマネージャーをやってきた人達が最後に何を思って引退して行ったのか一番知りたかったからです。
ただ、実際に探してみると、なかなかありませんでした。当時は、ゴールが見えない、自分の残りの2年を捧げるにふさわしいポジションなのか分からなく不安でしょうがなかったのを覚えています。
なので、あくまでマネージャーを務めたうちの1人が思ったこととして、参考程度にしてもらえればと思います。
先日、同期の麓と引退後に艇庫へ荷物の片付けに行った帰り、飯を食いながら麓から「マネージャーやってて一番辛かったことって何?」って質問をされました。
その時は、なんとなく言わなかったですが2年間一番辛くて嫌で嫌でしょうがなかったのは、選手としてボートを漕げないことでした。
僕は、ボート部に選手として活躍したくて、もっと言えば選手として勝利した時に感じるであろう「熱い気持ちを得る」ことが目的でボート部に入部しました。極論を言えば、自分が一番いい思いをしたかったわけです。
でもマネージャーになりました。それまでの20年間の人生、それなりに色々ありましたが、こればっかりは本当に目の前真っ暗案件でした。就活的に言えば「人生で一番の挫折」ってヤツです。
マネージャーを任せられた時は、マネージャーといえば「選手を支えること」が目的であり、「熱い気持ち」とは最も遠いポジションだと思っていました。だからこそ、本当に嫌で嫌でしょうがなかった。
でも、マネージャーになっても声かけてくれた同期、後輩、先輩、家族いろんな人にカッコ悪いところ見せたくない。それに、マネージャーになってとき、僕と辻は監督から「マネージャーから端艇部を強くして行ってくれ」と言われました。
だから、マネージャーになった以上、「選手を支えること」に徹底しなきゃ、じゃないと自分の立場ないやって頑張って思ったんですね。
それから、選手を支える為に毎日の仕事とかなるべく丁寧にやりました。ただ、一向に身が入らない。
選手の時はなかったのに、毎日のようにボート漕いでる夢見るし、とにかく選手がボート漕いでる姿を見るのが羨ましくて辛くてしょうがないって感じでした。それでも、根性で乗り越える、そんな毎日でした。
すみません、長くなりました。
長くなりすぎるので、結論から言います。
マネージャーの目的が「選手を支えること」っていうのは間違いでした。
それに気付くきっかけは去年の86回早慶戦でした。
負けたときに、これまで感じたことがないくらい悔しくてしょうがなかった。心の底から「悔しい、ちくしょう」って感情が溢れてきたんですね。
そのときに、「あれ?他人の勝負事の結果なのにこんなに悔しいなんて、勝ったときはマネージャーでも熱くなれんじゃない??」って気付いちゃったんです。
それからは、マネージャーだからって諦めずに、入部当初の目的であった勝利したときに得るであろう「熱い気持ち」を掴み取ってやろうと思うようになりました。選手が1着でゴールして水上で喜んでいる時に、自分は陸上でそれ以上のガッツポーズをとってやろうって。
でも、「熱い気持ちを得る」には選手にいい結果・勝利を勝ち取ってもらわなきゃ始まらない。いい結果を取る為に、選手がボートに集中できるように、「選手を支える」事が必要。だから自分が全力でサポートすることで、艇速を一秒でもあげてやろう、そのために全力でマネージャーやってやろうって思うようになりました。
つまり、「選手を支えること」は目的ではなくて、「熱い気持ちを得る」ための手段となったんですね。
ただ、どんなに僕が頑張っても最後に漕ぐのは選手です。
だから、僕は選手に自分の4年間を「懸ける」ことを選びました。
それからの一年半、色々ありました。
自分の頭では理解できても、心がついてこず悩んだこともありました。
何より、選手、特に同期に対して一番の想いをかけていた分、中途半端なことをされると本当に頭にきたし、本当に悔しかった。選手との考えにギャップを感じることもありました。
ただ、4年間終わって引退した身として、先輩、後輩、そして同期みんなに一番言いたいのは「ありがとう」ってことです。
最後の全体ミーティングでも話しましたが、僕のマネージャーとしての2年で「嬉しい・悔しい」といった勝負事の世界において一番の魅力とも言える、「熱い気持ち」を選手時代のように僕にもたらしてくれたのは、皆んなのお陰でした。
最後の全日本が終わって、結果どうこう関係なくオールを置いていく同期をみて思うのは、誇らしい気持ちでした。
余談ですが、最後のエイトの順決の伴チャ帰りに辻井から
「成仏できた?」
って言われました。
成仏ってワードどっから出てきたのか覚えてないし、文字にすると意味よく分からないけど、それを言われたあの時の僕は涙ちょちょぎれました。「あーやっと終わった」って気持ちと、「マネージャーやってきて良かった」って気持ちと、色んな感情が溢れてきました。
仲間に恵まれたお陰で、僕は選手という憧れに未練なく、マネージャーに誇りをもって、マネージャーとして成仏できます。本当にありがとう。
またまた、長くなりました。すみません。
後輩の皆んなむけて、あとちょっとだけ書かせて。
これまでツラツラと、あたかも100%やりきって、最高の気持ちで引退して的なこと書いてますが、やっぱり勝てなかったことだけは心残りです。早慶戦の負けは思い出すと今でも、悔しくてしょうがないです。
やっぱり最後は、優勝してガッツポーズとって、対岸から慶應艇庫に届くくらい大きな声で雄叫びをあげるような「熱い気持ち」を勝ち取りたかった。
だからこそ、後輩の皆んなには本気で来年、再来年、その次も、早稲田に勝って欲しいし、インカレ・全日本では雄叫びを上げまくって欲しいなって心の底から思います。
じゃあ、慶應義塾體育會端艇部の強みとはなんでしょう。
それは、「一艇ありて、一人無し」を他大より体現しやすい環境にあるんじゃないかと思います。
というのも、全ミでも話した通り、選手から強制的にマネージャーを出す制度をずっとしているのは慶應の強みなんです。
だから、マネージャーは選手に想いを懸けるべきだし、勝ちたいなら、選手からは勝利という見返りをしっかり求めるべき。でも見返りを求めるだけじゃ絶対だめで、マネージャーにされちゃったって悲劇の主人公気取ってる暇があれば、少しでも頭使って部のためになることをしなきゃいけない。
マネージャーの仕事は、直接選手に関係ないことも多くあるし、何やってんだろって思うような仕事も多いけど、意味のないことに意味を持たせるのはマネージャーの努力次第だし、その努力に選手は結果で応えてくれるから。
逆に選手も、マネージャーは事務作業する事務員でも、飯作る調理人なんかじゃなくて勝利を掴むために存在しているポジションってことを理解して、相応の責任をもって試合に臨まなきゃいけないと思う。
これが出来た時、綺麗ごとじゃなく「一艇ありて、一人無し」が体現できると思います。
これは幸にも不幸にも、選手から強制的にマネージャーを指名する制度があるからこそできることなんです。
これが上手く機能するようになった時、慶應義塾體育會端艇部って組織に他大にはない色が生まれると思うし、それが最後100m並んだ時に他大とのトップボール1個分の差を生み出してくれると僕は信じてます。
長々と本当にすみませんでした。これで終わりです。
全ミでもお分かりの通り、話し下手だし纏めるのが苦手なんです。
読み返すと、恥ずかしくなっちゃうので読み返しません。訂正は受け付けません。
ちなみに、題名は僕が地味にエグられた同期からの言葉第1位に輝いたものです。
さて、僕はキャンパスという戦場で生き抜くため、引退後太るであろう同期に2年分のマウントを盛大に取るために、炭水化物ダイエットと有酸素運動をしてきます。
それでは、みなさん、最後は内輪ネタで。
『左様ならば(さようなら)』👋
※参照:https://wanodaigaku.com/genre03/use009/
最後は高崎!!!
朝比奈 寛